主に地震、火山噴火への対応、その後の復旧・復興過程における体験の語り継ぎについて、ミュージアムの取り組みを学びあい、展望と課題を考える。

コーディネーター

深澤 良信

テルネット事務局次長
総務省消防庁国民保護・防災部参事官

略歴
 土木工学(学士)及び社会工学(修士)専攻;1982年国土庁採用;主として国土/地域計画及び災害対策分野に従事;国連ハビタット(ナイロビ)及び国連人道問題局(ジュネーブ)、人と防災未来センターなどに出向;2008年から現在の職場。

関連情報
TeLL-Net

コーディネーター

アレッサンドロ・パスート

イタリア国立研究評議院 水文地質保全研究所 研究部長

略歴
 

関連情報
 地質水文保全研究所は、CNR(イタリア国立研究評議院)に所属する研究機関の一つである。その目的の一つは、高度な科学技術研究と、被害を受けやすい地域の住民の水文地質学的な危険に対する意識や理解を高めるための知識の普及・教育訓練を組み合わせることである。本研究所は、このような目的意識の下、イタリアの戦後最悪の災害の一つである1963年の巨大地滑りの被災地ヴァヨント渓谷において、詳細な地質学的、地形学的調査を行ってきた。1963年10月9日、世界最大の高さを誇るダムの一つが湛える貯水池に約2億6千万立米の岩が滑り落ち、これによって5千万立米の水が250メートルの高波となってダムを乗り越え外へ流れ出た。この津波で7村が完全に破壊され、約2千人の死者を出した。
 私たちは、このような災害を回避し人々により確かな安全と情報を提供するために得られた科学知識を普及させることが最重要だと考えている。知識は意識を生み、意識は備えと対応力を向上させる。
 それゆえ、知識を広め人々の意識を向上させる活動を研究者や科学者に求めていくことを我々は使命としている。専門家の方々には、複雑な概念を分かりやすい言葉に直して、児童や学生、危険な環境で生活している人々に説明してもらうよう依頼している。

人と防災未来センターの活動

阪神・淡路大震災、日本:1995

 人と防災未来センターは、阪神・淡路大震災の経験と教訓の発信を使命として、2002年4月に国の支援を得て兵庫県が設置した。「展示・資料保存」部門と「研究・研修・現地支援」部門を併せ持つことで様々な交流ネットワークを形成し、「世界に類を見ない災害メモリアル施設」、「我が国最大の防災教育施設」との評価を受けている。大震災から15年が経過して記憶の風化が懸念される今、若者による語り継ぎにより次世代へ伝える取組に力を入れている。

発表資料(パワーポイント - 日本語と英語)

山本 健一

人と防災未来センター 副センター長

略歴
 人と防災未来センター副センター長。阪神・淡路大震災当時(1995年)は、国会と政府(国土庁)の連絡調整窓口を務める。その後、国土庁・国土交通省で、防災の観点等からの首都機能移転の検討、大深度地下利用の企画、ダム等の公共事業の評価の調整、阪神・淡路大震災の教訓を踏まえた宅地の耐震化の促進、都市計画法による開発許可などを担当。2007年7月から現職。

関連情報
人と防災未来センター

災害を生きのび廃虚から立ち上がる-四川大地震サイトミュージアム

四川大地震、中国:2008

発表資料(パワーポイント - 英語)

劉 華彬

国家文物局博物館 社会文物司 科学技術信息処(科学技術情報課)処長(課長)

1906年サンフランシスコ地震時の避難小屋の保存

サンフランシスコ地震、アメリカ:1906

 米国三フランシスコ市「西地区プロジェクト」は、2002年~2006年に、1906年のサンフランシスコ地震と地震火災の後に建設された避難小屋4棟の保護活動を行った。
 避難「小屋」は、1906年の地震・火災時の避難民収容のために建設された。総数5,610棟(10x14フィートのワンルーム)の小屋が建設され、11カ所の避難民キャンプで16,000人を超えるサンフランシスコ市民の収容に使用された。小屋はスギ板の屋根、モミ材の床、セコイア材の壁で造られ、建設地となった公園や広場に溶け込むようにすべて緑色に塗られた。1907年8月にキャンプの閉鎖が開始されるようになると、避難小屋は私有地に運ばれ、しばしば2棟以上を組合せて大きな住宅に造り変えられた。キャンプから移転された5,343棟のうち、現存しているのは一握りに過ぎない。
 1907年か1908年頃に、太平洋を臨むサンフランシスコのサンセット地区カーカム通りに、避難民キャンプから4棟の小屋が運ばれ、組み合わせられてロッジが2棟建設された。2棟はその後その場所にずっと置かれていたが、元の小屋が1906年に果たした役目は忘れ去られていた。「西地区プロジェクト」がこの小屋を発見し、サンフランシスコ1906年地震・地震火災100周年に合わせて1棟の修復を行った。修復された小屋はサンフランシスコの中心部に置かれ、そこで2006年4月中、耐震構造建築に関する展示が行われた。その1カ月間に来訪し、地震避難民キャンプについて学んだ人は13,000人を超えた。
 「西地区プロジェクト」は、この地震避難小屋の修復で、2007年カリフォルニア歴史保全州知事賞を受賞した。同賞は、歴史的環境保全の成果を称え、歴史保全に対する全州の意識、理解、支持を高めるためのものである。

発表資料(パワーポイント - 英語)

リチャード・ブランディ

米国サンフランシスコ市「西地区プロジェクト」代表・理事

略歴
 サンフランシスコに本拠を置く非営利歴史団体、「西地区プロジェクト」代表。8年をこえる経験をもつ建築史学者。カリフォルニア大学バークレー校で学士号、メリーランド州ボルチモアのガウチャー大学で歴史的環境保全の修士号を取得。米内務省が定める専門資格基準に適合した歴史学者であり、歴史、建築史、歴史的環境保全、文化財管理、都市計画を専門分野とする。サンフランシスコ在の歴史的建築専門会社、カリフォルニア州、ミシシッピ州の環境計画会社での勤務経験をもつ。サンフランシスコ生まれで、4代続いたサンフランシスコ市民。

関連情報
「西地区プロジェクト」

1999年8月17日

マルマラ地震、トルコ、1999

 1999年8月17日の地震以前、サカルヤは社会経済の面で最も発展したトルコの都市のひとつであったが、不幸にして地震による大打撃を被った。
 1999年の地震では、サカリヤの建物のうち70%が全壊または半壊し、公式発表では、3,891人が死亡、1万人が負傷した。多くの建物が被害を被ったため、地震後に中心部の住民のほとんどが別の地区や近隣の村へ移住した。
 アダバザルの人々は17日の地震の朝、廃墟と化した街を目にした。自分のいる周辺のみがそうなったのかと誰もが思ったが、そうではなかった。サカリヤの中心であるアダバザルの街路という街路、あらゆる場所が壊れた建物で塞がれ、歩くこともできなくなっていた。全壊を免れた建物でも1階と2階の区別がなくなっており、ほとんどの建物は崩れ落ちていた。基礎が不安定だった建物もまた、崩壊していた。疫病の蔓延を防ぐため、集団墓地に遺体は埋葬された。サカリヤの人々はこの地震の恐ろしさを決して忘れることはないだろう。
 これはサカリヤの歴史の中で、最も暗く、 苦渋に満ちた出来事であった。そして将来また同じような災害に見舞われることもあるのだ、ということを皆理解している。だからこそ、体験談を語り継いで各人が地震に備えること、そして災害による被害から自らを守ることが大切だと信じている。

発表資料(パワーポイント - 英語)

ビルジ・ブデイリ・ディクメン

サカルヤ大都市圏市 計画・事業部 都市計画官

略歴
 1999年、イスタンブール工科大学、建築学部、都市・地域学科卒業。マルマラ大学にてオペレーション・リサーチの学位も取得。4年間サカリヤ市の都市計画部門にて、都市計画官として勤務し、姉妹都市事業も担当する。1977年3月26日トルコ、エルズルム生まれ。夫、4歳の息子と暮らす。

関連情報

ガラス製の慰霊碑-8月17日に亡くなった全ての人々の名前が刻まれている(公式情報による)
私たちは決して忘れない、決して!

1985年7月19日のスタヴァ渓谷における災害の教訓

尾鉱ダム崩壊、イタリア:1985

 1985年、スタヴァ渓谷上流(北部イタリア)にあるホタル石鉱山の鉱滓堆積場(テイリング・ダム)事故が引き起こした泥流がこの高山渓谷を完全に破壊し、268の人命を奪い、経済上、環境上の大損害をもたらした。この大惨事の原因と責任については、この種の地質構造に共通する安全性の低さであるという説が一般的である。スタヴァ災害の痛手が非営利機関「スタヴァ1985基金」の設立を促した。同基金は、この災害、あるいは近視眼的な費用節減、怠慢、浅慮、個人的責任への注意力の欠如によって引き起こされた同様の災害に関する記憶の風化を防ぐことを目的としている。端的に言えば、スタヴァ1985基金は、同じ過ちを繰り返さないために、安全と人命尊重の意識を強めるべく設立された。今回特に同基金の目標と教育活動について述べる。すなわち、事故発生現場に建設された博物館と資料センターの運営、ならびに採鉱が行われていた場所や鉱滓堆積場があった場所を巡る「追悼の道」ツアー等である。追悼の道沿いには、鉱山とスタヴァ災害についての情報パネルが設置されている。同センターの会議場では、鉱滓堆積場管理に関する会議やその他のイベントが一般市民や専門家向けに開催されている。スタヴァ1985基金はトレント大学と共同で、若い技術者たちに大規模地盤基礎構造物の適切な建設と管理の資格を与え、そこに潜む危険について認識させるために、2級修士(a 2nd level Master)の創設に出資した。スタヴァ基金は、ヴァイヨント(イタリア)、Sgorigrad(ブルガリア)、Merrespruit(南アフリカ)等、同様の災害が発生した土地の研究機関と密接な関係を結んでいる。

発表資料(パワーポイント - 英語)

ジョヴァンニ・トサッティ

スタヴァ1985基金 科学顧問
モデナ・レッジョエミリア大学地球科学学科上席研究員

火山山麓に暮らす者の役割~次世代に伝える~

有珠山噴火、日本:1910,1944,1977,2000

 人は自然災害に遭うと「まさかこんな事になろうとは」と身の不幸をなげく。が、生きた星「地球」に生活する以上自然災害は必然である。噴火を封じる事は不可能だが、噴火に遭遇した者が冷静に見つめ、教訓を集積する事で災害の痛みを減じる減災文化、予知手法の構築に資すると考えた人物が過去に居た。畑から噴火し、火山誕生という異変が世界大戦中という事で見過ごされるのを惜しみ、記録を残し、更に私財でその火山を買い取り保全に努めた。彼の火山との共生姿勢は引き継がれ、2000年有珠山噴火に際し、見事な減災成果を挙げた。

発表資料(パワーポイント - 日本語)

三松 三朗

三松正夫記念館 館長

略歴
 1937年大阪府吹田に誕生。北海道で牧場主に成ることを夢見て渡道、大学で獣医学を専攻するが、三松正夫との出会いで彼の考え方と火山の魅力に取り憑かれ、後継者のいない正夫の二代目となる。彼の残した資料を活かし、昭和新山の保全と教育的利用のため小規模な火山系博物館を開設。火山との共生を定着させるため、洞爺湖有珠山ジオパーク構想を導入、ユネスコが支援するGGN(Global Geo-parks Network; グローバル・ジオパーク・ネットワーク)の日本第1号の認定を受け、専門委員として参画中。

関連情報
三松正夫記念館の概要
洞爺湖・有珠山ジオパーク
そうべつエコミュージアム友の会

雲仙岳災害の伝承と災害伝承ミュージアムとしての取組

雲仙普賢岳噴火、日本:1991

 雲仙岳災害記念館は、火山学習施設として災害を伝承し、災害時に全国からいただいた温かいご支援への感謝を表すために設置されました。当館では火山現象を身近な材料で再現する「キッチン火山」教室や、災害を経験した「語り部」の講話が行われています。毎年6月3日を「いのりの日」とし、子どもたちが慰霊の気持ちを込めて作ったキャンドルを灯すイベントも行われています。また、当館を活用した独自の防災(理科)教育プログラムを作成し、学校教育への支援を実施しています。1人でも多く、また1年でも長く噴火災害の教訓を伝えていけるよう、火山・防災教育に取り組む活動が行われています。

発表資料(パワーポイント - 日本語)

河本 冨士雄

雲仙岳災害記念館 館長

略歴
1955年 福岡県北九州市生まれ
1979年 西南学院大学商学部卒
 26年の旅行会社勤務を経て、2006年8月より現職に就く。
現在、島原半島観光連盟理事及びNPO法人がまだすネット理事。
災害の経験がない者として、どれだけ多くの人へ噴火災害を伝えることができるか、ということにテーマを絞り活動している。

関連情報
雲仙岳災害記念館

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2日目:各地からの報告と討論